野口祥順さんの現在 スタメン表記入を真中監督時代から担当 在籍期間2000年〜2014年とヤクルト一筋

選手情報

みなさん、試合の前にXをチェックして、メンバー表を確認していませんか?

あの達筆な字で書かれているメンバー表は監督が書いているのではありません。(「高津さん、達筆」という書き込みを見たことがありますが、実は違います)

メンバー表を書いているのは、野口祥順さん。

現在、現役を引退し、東京ヤクルトスワローズの球団職員として活動しています。2021年度より、一軍マネージャーに就任されています。

スタメン表記入を真中監督時代から担当しています!

野口祥順さんは1981年5月16日生まれで、茨城県土浦市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)です。現役時代は東京ヤクルトスワローズでプレーし、1999年のドラフト会議においてヤクルトスワローズから1位指名を受けて入団されました。

現在は球団の一軍マネージャーとして、試合や練習の準備、選手のサポートなど、チーム運営の裏方として活動されています。

野口祥順さんの現役時代の基本情報

名前: 野口祥順(のぐち よしゆき)
生年月日: 1981年5月16日
出身地: 茨城県土浦市
身長・体重: 185cm・83kg
投打: 右投右打
ポジション: 内野手・外野手
背番号: 55
在籍期間: 2000年〜2014年(東京ヤクルトスワローズ一筋)

高校時代

茨城県立藤代高等学校に進学。陸上部に入るつもりだったのですが、持丸修一監督と出会い、野球を続けました。

天性のバネを生かす指導を受け、鳥谷敬(聖望学園高)と並んで、長打力と強肩を売りにした関東屈指のスケールが大きい遊撃手として活躍しました。

3年の夏は常総学院に敗れてベスト8どまりでしたが、俊足強肩と、高校通算30本塁打という記録を残しました。。

1999年のドラフト会議において、ヤクルトスワローズから1位指名を受け、入団しました。

プロでの主な経歴

入団初期の苦労(2000年〜2001年)

2000年、当初は「長打力を秘めた、走攻守三拍子揃った大型遊撃手」として、「ポスト池山隆寛」が球団からの期待でした。

しかし選手生命も危ぶまれた頭部死球などの事故が重なったため、入団後しばらくは二軍で打率1割台から2割台前半という成績が続きました。

2001年も、一軍に帯同してオープン戦初出場こそ果たしましたが結果を残せず、二軍でも打率.143と振るわず一軍昇格はなりませんでした。

印象的なプロデビュー(2002年)

2002年9月12日に故障の宮本慎也に代わって初の一軍登録を受けると、翌日の9月13日、対横浜ベイスターズ戦、途中出場からの打席で千葉英貴から、プロ野球史上44人目となるプロ初打席初本塁打という華々しいデビューを飾りました。

主な活躍(2003年〜2009年)

2003年は、初の開幕一軍でシーズンを迎えました。スタメン出場はありませんでしたが1年間ほぼ一軍で過ごし、主に代走や守備固めで自己最多の51試合に出場しました。本塁打は打てませんでしたが、5盗塁と俊足ぶりを発揮しています。

2004年はレギュラー候補としてシーズンを迎え、3月に入籍も発表する充実したスタートとなりました。

開幕こそ二軍で迎えましたが、宮本慎也の離脱に伴い5月2日から約1ヶ月、8番遊撃手としてスタメン出場が続きました。一時は打率も3割後半を記録し、4本塁打と打撃でも貢献していましたが、右肩に不安を訴えるようになり、8月以降はスタメンを城石憲之に譲って代走要員に逆戻りしました。オフの11月に右肩を手術することになりました。

2009年はどこのポジションでも対応できるよう、7個のグラブとファーストミットを常に用意していました。一塁17試合、二塁17試合、三塁4試合、左翼7試合とユーティリティーぶりを発揮し、代走で出場したあとそのまま元の選手の守備位置に就けるメリットがあるため積極的に代走起用されました。自己最多の74試合に出場し、打率.263、11盗塁と期待に応える活躍を見せました。

キャリア終了~戦力外通告

2014年、ファームでは打率.316、9本塁打、OPS.937と目覚ましい成績を残し、一軍でも打率.286と一定の結果を残しましたが10月1日、球団から戦力外通告を受けました。

野口祥順さんの応援歌です!

今こそ立ち上がれ 出番が来たぞ 力強く翔べ走れ 燃えろ55(ゴーゴー)野口

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